身土不二

 トップページ >  時事エッセイ >  無洗米の大宣伝?

 このページでは身土不二.comの砂金が書いた時事エッセイを紹介しています。


無洗米の大宣伝?

 近頃、TVコマーシャルで無洗米が大々的に宣伝されている。 そのため、突然個人客も業務筋も無洗米に興味を持ちだしたようだ。

 この無洗米について思うところを書いてみようと思う。

 無洗米の登場については、かなり早くから、つまり7年前には関西方面、特に印象に残っているのは『きれいさん』というネーミングで、市バスの車体に広告が描かれていたのを鮮明に憶えている。興味をもったので、卸に関東では扱わないのかときくと、味が悪いのと細菌の問題もありそうなので、扱う予定はないという返事だったように思う。データも貰った。

 今日これだけ、宣伝費をかけるのだから、多分、技術的に向上したのだろう。 無洗米自体は、その誕生はとても結構なことだと思う。白米を食べる人にとっては、糠切れに一層磨きがかかったのだから。

 便利さを追求する中で、米を洗う手間や米を研ぐ手間を省けるのはそれだけを取り出してみれば「進歩※」なのだから。(業務筋にとっては、米研ぎというワザを必要とせず、マニュアル化してアルバイトでも誰でも同じように炊けるというメリットがあるのだから便利。しかし、浸漬時間や水加減などは細心の注意が必要!)(個人にとっては、マニキュア・長い爪・ハンドクリームの匂いなどを気にせずに、御飯を炊けるのだから便利。)

※ 進歩の括弧は、お米への深い興味・関心の喚起にはマイナス効果だから。

 しかし、無洗米の宣伝がある種の便利さだけでなく、美味しさや栄養まで一番だと持ち上げてくると首を傾げざるを得ない。「どんな米でも無洗米製造工程を経れば美味しくなる」は、嘘である。せいぜい、「無洗米も、やっと米をまずくしないですむようになった」という表現がふさわしいと思う。無洗米は美味しいも不正確な表現だ、お米の味は、当然ながら原料米に比例する筈だからだ。原料米が美味しければ美味しいし、まずければまずいのは当然だ。まずいお米を原料にしてつくれば無洗米でもまずいでしょう。

 栄養価については、米の胚芽のところに栄養分が豊かなのは常識だ。だから、栄養や便秘対策などで胚芽米や7分・5分づき、さらには玄米食や発芽玄米食で食べる人も増えている。家庭用精米機の静かなブームもその証しだ。

 栄養価をとるのか、独特の甘みをとるのか、好みの食感・味をとるのか、光沢をとるのか、値段をとるのか、手軽さ・便利さをとるのか、それはそれぞれの生活の中での個人の選択の問題だ。お米の食べ方にはいろいろな楽しみ方があっていいはずだ。いや、米の消費が減ってきた今日では、色々な楽しみ方のアイディア提案こそが大切な課題のはずだ。

 「無洗米は、環境に優しい。」これが、最大のキャッチフレーズのようである。かなり数字を挙げて、米の研ぎ汁がヘドロの主たる犯人だと主張している。しかし、これは木を見て森を見ない議論である。

 まず、常識的に考えてみたい。米消費はずっと減少を続けてきている。ヘドロ公害のピーク時には、米消費も最大だったのだろうか?調べてほしい。精米機の糠切れの性能も格段にアップしている。その上、米消費が減ってきているのだ。研ぎ汁として流出する量は相当少なくなっているはずだ。なにか、怪しげな議論だ。

 また、もう一つは、魚が住める水にするには、風呂桶何倍分もの水を要するという主張だ。これも、本当に環境への配慮を求めるなら、醤油や油や味噌汁や牛乳や各種洗剤や水洗トイレなどのデータも一緒に示して参考にさせて欲しい。

 突然出されてきた研ぎ汁の主犯説は、納得がいかない。いつぞやの「米を食べると馬鹿になる」という説がまことしやかに流布されたのを思い出すのは私だけなのだろうか? お米を愛する人たちが、お米を研ぐ時に「後ろめたい気分」にされるのは、やりきれないし、とんでもない事だと思う。また、研ぎ汁を風呂場で有効利用している人や農薬無使用のお米の米ぬかを利用して、石鹸がわりにしている人たちは、今すぐ中止しなければならないことになってしまうのも、重大問題だ。

 さらに、もう一つ見過ごせない主張がある。それは、無洗米には農薬の残留がないというものだ。これは、無洗米さえ食べていれば安心ということだ。一部消費者のエゴにつけこむようなこの主張は、消費者の有機栽培農産物への関心の高まりもあって四月から認証制度が法制化されるという情勢下にあって、まったく情けない。

 つまり、言葉を変えれば、どんな作り方をした米でも無洗米に加工すれば問題ないよということになる。化学肥料や農薬にたよる農業の環境への負荷などが、いろいろな角度から真剣に研究されて議論され、篤農家たちも現場で土作りや色々な農薬無使用の農法研究を重ねているときに、安易に過ぎるアピールではないだろうか?そういう問題なのだろうか?

 「無洗米は便利だ」を強調する分には、それを妨げる気は毛頭ない。都会の多様な価値観の中で、そういうニーズに応える商品が生まれても当然だからだ。

 環境問題で本気で完璧を求めるなら、コンクリートで固めてしまった用水路や河川の河岸の問題や水洗式トイレ、林業問題、アスファルト都市への人口集積問題やそれに付随する自動車公害問題などへの言及も避けられないし、食品添加物や化学肥料・農薬使用・遺伝子組み替え食品問題などへの言及も必要だ。

 無洗米協会の主張は、単なる販売促進の手段として、環境・健康問題を安易に利用している印象を免れない。TVやインターネットなどでも宣伝強化しているので黙過できない。

 最後に、米をここまで工業製品化し、宣伝してしまうと、もともと一般のナマモノより保存性が高いため、ますますお米の暮らしの中での扱いが軽んじられていく流れになっていくような気がする。お米の将来を考えると、それが一番頭の痛い問題だ。つまり、米消費の減退傾向に歯止めをかけるためにも、お米の奥深さやいろいろな食べ方・楽しみ方の普及によってお米をもっともっと身近なものにしていくことが最優先課題になっているときに、無洗米は業界の一部の企業の利益の為に、それに逆行してどんどん他人任せにしてしまう流れ・ムードをつくってしまう気がする。

 「お米を食べれば馬鹿になる」と同様の歴史的愚行を繰りかえしたくないと思うのは、私だけだろうか。

2001年03月05日(月)

前のページ  ページの最初 トップページ 問い合わせ